『悪と往生』山折哲雄 その1

「唯除五逆誹謗正法(ただ、五逆罪…父殺し、母殺し、聖者殺し、仏の体を傷付け、教団を破壊する…を犯した者と仏法をそしる者は、除く)」
……『大無量寿経』より
 
歎異抄』は親鸞の弟子、唯円がその師の言葉を書きとめ編集したモノである。
この本には有名な「悪人往生」をはじめとして、悪に関する三つの言及がされている。
まず、第一に「悪人往生」の問題、悪人こそが救われ得る正機ということ。
第二に人の善悪は宿業である、悪というモノは意思や人知を越えたところに生じるという宿命論的な考え。
第三に人は元々動物や植物を日頃から殺し、喰らっている。しかし、それでも如来の本願により救われ得るのだという認識。
つまり「悪人は罪を負っているからこそ、その罪を雪ぐため、如来によって救われるのだ」「悪というモノはやろうと思って出来るモノでもないし、さけようと思ってせずに済むモノではない。すべて宿命なんだ」「人ってもともと生きる為に生き物を殺しているものなんだよ」……かなり、乱暴な言い方になるがこんなモノだろうと、僕は思う。
確かにこれらは考えなくてはいけない命題である。しかし、ここで語られていない重大な問題が存在する。
 
その問題は親鸞の著作『教行信証』で展開されている。
詳しく書くと長くなるので、要点を言うと、父殺しという大罪を犯した者は許されうる・救われうる者なのか、人間の根元悪は阿弥陀如来への信によって乗り越えられるのか……つまり、実現してしまった「悪」は許されるのか、それに条件はあるのかという論である(『歎異抄』は可能性における悪の問題)。
これについて親鸞は、善き教師と深く懺悔することが必要だと結論付けている。
この結論の是非についてはここでは語らないが、この問題は「悪」を語るにおいて、不可欠に思える。
 
では「為された悪」について論じられていない『歎異抄』は不完全なモノなのか?
親鸞より二世紀ほど後の時代に生きた蓮如は『歎異抄』の危険性に気付いていた。
日常的に殺しあいという「悪」が為されている戦乱の時代の中で「悪人往生」「悪人正機」の思想は悪人肯定に逸脱しかねない。故に蓮如は『歎異抄』を心得ない者に見せてはならないと定め、罪深き造悪の凡夫は無二の懺悔をしなくてはならないと教えた。
 
……では『歎異抄』とは何であるのか、親鸞の思想を顕しているのではなかったのか……?
 
……ちょっと長くなった上にまとまってませんが、第一章の内容を僕なりに書きあらわしてみました。前提の部分なので長くなりましたが、これ以降はもっと短くまとまると思います。
不正確なところもあると思いますが、目的が僕がどう読み、どう考えたかを書くのがメインなので御容赦ください。
今回については、為してしまった悪と可能性として語る悪……この問題の違いに気付かせてもらったのが大きいですね。