『駈込み訴え』太宰治

「いいえ、私は天の父にわかっていただかなくても、また世間の者に知られなくても、ただ、あなたお一人さえ、おわかりになっていて下さったら、それでもう、よいのです」

太宰治は青臭い。
高校生や大学に入ったばかりの人には似合っているが、まあ、何と言うか若気のいたりのような…太宰治というと、失礼ながらそんな印象がある。
だが、前述の『悪と往生』の中で『駈込み訴え』がとりあげられていたので、ちょっと読んでみることにした。

これは愛の物語である。
他の弟子達の愚かさをさげすみ、師の足を聖油で洗おうとする娘に嫉妬し、師の行為や言葉を批判し、ついには師を敵に引き渡してしまう。その愛ゆえに。
そんなイスカリオテのユダが、ユダヤの祭司長の前でイエスを売り渡そうとして訴えかける言葉…その一人語りがこの作品の全てである。
この作品においてユダは合理的で、純情で、潔癖で、イエスのことを「美しい人」と繰り返す…まるで恋する乙女のように(笑)
しかし、人間イエスを見つめるあまり、救世主イエスとは相容れなくなり、そのイエスとの断絶に絶望して(乙女的には彼はワタシのことをわかってくれない!と逆上して)、イエスを裏切ってしまう。
そのユダが祭司長に語る言葉は支離滅裂である。愛と憎しみのあまり錯乱して、けなしたと思ったら、すぐに讃えはじめる(゜д゜)
しかし、結局最後には(未練を振りきるかのように)下卑たふりをして銀三十で最愛の人を売り渡す。

読後感は…やおい?と思うほど愛に満ち溢れていた。
中島敦の『弟子』に通じるところがあるが、もっと、綺麗事でない愛。ああ、人間ってこんなやるせない、矛盾した存在なんだなっていう実感。不条理な青臭い情熱。
そして読んでるうちに気付いてしまう、そんな青臭いのが人間なんだと。それを指摘されるのが恥ずかしいから遠ざけてしまう。
しかし、その青臭さが時には、どんな正論よりも心を揺さぶることもある。
そんなことを思わせるパワーに満ちたやおい作品でした。おしまい。

読んでみたい人はweb上の青空文庫で見てみるとイイかも。